2015年 03月 09日
東北・被災地を行く 1 |
3月5日から2泊3日で東北の被災地に行ってきました。
ここ数ケ月被災地をこの目で見たいという思いがありいつ行くかは決めていなかったのですがある番組をきっかけに”1日も早く見に行く”という思いが強くなりました。
その番組はNHKスペシャル「黒田裕子~最後のメッセージ(傷ついた人に寄り添って)」です。
黒田裕子さんは元宝塚私立病院の副総婦長で阪神・淡路大震災では避難所の救急病院で1ケ月間手当にあたりました。しかしその後避難所で亡くなったり、病気になったりする方が続出することに加えて精神的に耐えきれなくなる人たちも増えつつあることを目の当たりにして病院を退職し(総婦長の座は約束されていたそうです)以後ボランティアとして長年被災者を支援してきました。
東日本大震災でも阪神・淡路大震災の経験を踏まえて仮説住宅のありようや被災者一人一人と向き合うことの大切さを次代に伝えながら気仙沼を中心に亡くなる一か月前まで活動されていました。
病床についてからも自分の病気よりも被災者のことを一番に考え取材者に向かって”まず、現場へ行ってください。現場にはすべてがあります。現場を見てください。”と訴えていました。
この言葉が私を東北へ向かわせました。
あの日から4年もたってしまったけれど、何もできないかもしれないけれど、とにかく行ってみようと。
東北は母と10年くらい前にお花見ツァーでまわったくらいで全く土地勘がありません。
ざっと鉄道でめぐることのできる路線を調べて、とりあえず仙台2泊だけ用意しました。
1日目< 札幌→仙台→松島海岸→石巻
仙台空港に到着したのは午後1時。
この空港もまわりが津波で浸水し一瞬で陸の孤島となったと報じていました。
今の平穏な空港からは想像もできません。
仙台駅へのアクセス線の中から。
途中、名取市などの様子を車窓から眺めながら仙台駅へ向かいます。
名取市は大津波警報発令1時間後に襲来した津波に上の写真に見えるような防潮林をなぎ倒し家屋をのみ込み多くの犠牲者(2011年4月時点 死者、行方不明者合わせて約2000人)がでました。
大型スーパーなどに普通に買い物へ出かけたり、行きかう大勢の人を見ていると大惨事などなかったような錯覚に陥ります。
あちこちで見た”ムスビ丸” めんこい ^^
当初午後からはいろいろな支援団体を訪ねてお話を聞こうと思っていたのですが最終日が雨予報ということもあってとにかく少しでも多くを見ようとすぐ石巻へ向かいました。
松島は訪れたことがなかったので途中で電車を降りましたが石巻へ向かうには時間が40分しかありません。
当然「瑞厳寺」の見学もパス。(奥にあるみたいね)
「五大堂」につづく透かし橋が見えてきました。
ガイドブックによると1604年に伊達政宗が再建したもので秘仏の五大明王は33年に一度だけ御開帳されるようです。
装飾性の高い東北最古の桃山建築様式。
お堂の四面に十二支の動物が飾られています。
お堂からのぞむ松島湾
雨上がりの海が美しい。
あの日、こんな海が荒れ狂い。。。
いまはまだ寒く観光客も少ないですが夏には本来の賑やかな景勝地の姿をとり戻しているのでしょう。
お店の入り口には津波の記録がありました。
名物の牡蠣丼を食べる暇なく(こういう旅でもなんかね、こうなる^^;)石巻へ急ぎます。
車窓から見ていると海岸からほど近い山が削られていましたが以降こういった大きな爪跡の状況はもうほとんど目にしませんでした。
今現在は海岸づたいの護岸工事がどこまでも続いており至る所で土盛りをしています。
高台を造成して道路をつくり、さらにその上にまた高台を造成してそこに鉄道(仙石線)を移転するそうです。
津波から守るための壮大な工事ですね。
石巻に到着した時は午後5時をまわっていました。
あ~、駅に懐かしや”サイボーグ009” 漫画の街でしたか~
1時間ほど時間があったので漁港の方へと思いましたがお腹すいているし、、(対面式座席だったので電車で食べれず;;)
とりあえず蒲鉾やさん”白謙”の方へ歩いていくと地図にのっていた”復興ふれあい商店街”がありました。
あ、ここでお話ししながら何か食べよっか!と思ったら5時で閉店してました!xxxxx!
一軒くらい~とみても皆終わってました。やっぱり来る時間遅かったか。。
みんな団結して頑張っているんですね。
駅前はところどころ家屋を取り壊したあとの空き地もありましたが皆普通の生活をしているように見えます。
石巻は2011年4月時点5000人もの死者、行方不明者をだした地域でした。
国内屈指の水産加工場が広がる一大漁港で宮城県一の水揚量を誇っています。
そこが一瞬にしてがれきの山と化し工場排水と生活排水、建材などの焼き焦げたにおいが入り混じっていたと報じられていました。
海面の中には家、車、電柱、、街全体が沈んでいたと。。
進む町内の復興工事
この日はやさしい夕焼けに包まれていました。(漁港近くの旧北上川)
女川までの鉄道路線はまだ開通していませんでした。
石巻から仙台まではちょうどいい時間があったので高速バスで戻りました。
※ 被災状況は 北海道新聞社写真集「東日本大震災一か月の記録」を参照しています。
ここ数ケ月被災地をこの目で見たいという思いがありいつ行くかは決めていなかったのですがある番組をきっかけに”1日も早く見に行く”という思いが強くなりました。
その番組はNHKスペシャル「黒田裕子~最後のメッセージ(傷ついた人に寄り添って)」です。
黒田裕子さんは元宝塚私立病院の副総婦長で阪神・淡路大震災では避難所の救急病院で1ケ月間手当にあたりました。しかしその後避難所で亡くなったり、病気になったりする方が続出することに加えて精神的に耐えきれなくなる人たちも増えつつあることを目の当たりにして病院を退職し(総婦長の座は約束されていたそうです)以後ボランティアとして長年被災者を支援してきました。
東日本大震災でも阪神・淡路大震災の経験を踏まえて仮説住宅のありようや被災者一人一人と向き合うことの大切さを次代に伝えながら気仙沼を中心に亡くなる一か月前まで活動されていました。
病床についてからも自分の病気よりも被災者のことを一番に考え取材者に向かって”まず、現場へ行ってください。現場にはすべてがあります。現場を見てください。”と訴えていました。
この言葉が私を東北へ向かわせました。
あの日から4年もたってしまったけれど、何もできないかもしれないけれど、とにかく行ってみようと。
東北は母と10年くらい前にお花見ツァーでまわったくらいで全く土地勘がありません。
ざっと鉄道でめぐることのできる路線を調べて、とりあえず仙台2泊だけ用意しました。
1日目< 札幌→仙台→松島海岸→石巻
仙台空港に到着したのは午後1時。
この空港もまわりが津波で浸水し一瞬で陸の孤島となったと報じていました。
今の平穏な空港からは想像もできません。
仙台駅へのアクセス線の中から。
途中、名取市などの様子を車窓から眺めながら仙台駅へ向かいます。
名取市は大津波警報発令1時間後に襲来した津波に上の写真に見えるような防潮林をなぎ倒し家屋をのみ込み多くの犠牲者(2011年4月時点 死者、行方不明者合わせて約2000人)がでました。
大型スーパーなどに普通に買い物へ出かけたり、行きかう大勢の人を見ていると大惨事などなかったような錯覚に陥ります。
あちこちで見た”ムスビ丸” めんこい ^^
当初午後からはいろいろな支援団体を訪ねてお話を聞こうと思っていたのですが最終日が雨予報ということもあってとにかく少しでも多くを見ようとすぐ石巻へ向かいました。
松島は訪れたことがなかったので途中で電車を降りましたが石巻へ向かうには時間が40分しかありません。
当然「瑞厳寺」の見学もパス。(奥にあるみたいね)
「五大堂」につづく透かし橋が見えてきました。
ガイドブックによると1604年に伊達政宗が再建したもので秘仏の五大明王は33年に一度だけ御開帳されるようです。
装飾性の高い東北最古の桃山建築様式。
お堂の四面に十二支の動物が飾られています。
お堂からのぞむ松島湾
雨上がりの海が美しい。
あの日、こんな海が荒れ狂い。。。
いまはまだ寒く観光客も少ないですが夏には本来の賑やかな景勝地の姿をとり戻しているのでしょう。
お店の入り口には津波の記録がありました。
名物の牡蠣丼を食べる暇なく(こういう旅でもなんかね、こうなる^^;)石巻へ急ぎます。
車窓から見ていると海岸からほど近い山が削られていましたが以降こういった大きな爪跡の状況はもうほとんど目にしませんでした。
今現在は海岸づたいの護岸工事がどこまでも続いており至る所で土盛りをしています。
高台を造成して道路をつくり、さらにその上にまた高台を造成してそこに鉄道(仙石線)を移転するそうです。
津波から守るための壮大な工事ですね。
石巻に到着した時は午後5時をまわっていました。
あ~、駅に懐かしや”サイボーグ009” 漫画の街でしたか~
1時間ほど時間があったので漁港の方へと思いましたがお腹すいているし、、(対面式座席だったので電車で食べれず;;)
とりあえず蒲鉾やさん”白謙”の方へ歩いていくと地図にのっていた”復興ふれあい商店街”がありました。
あ、ここでお話ししながら何か食べよっか!と思ったら5時で閉店してました!xxxxx!
一軒くらい~とみても皆終わってました。やっぱり来る時間遅かったか。。
みんな団結して頑張っているんですね。
駅前はところどころ家屋を取り壊したあとの空き地もありましたが皆普通の生活をしているように見えます。
石巻は2011年4月時点5000人もの死者、行方不明者をだした地域でした。
国内屈指の水産加工場が広がる一大漁港で宮城県一の水揚量を誇っています。
そこが一瞬にしてがれきの山と化し工場排水と生活排水、建材などの焼き焦げたにおいが入り混じっていたと報じられていました。
海面の中には家、車、電柱、、街全体が沈んでいたと。。
進む町内の復興工事
この日はやさしい夕焼けに包まれていました。(漁港近くの旧北上川)
女川までの鉄道路線はまだ開通していませんでした。
石巻から仙台まではちょうどいい時間があったので高速バスで戻りました。
※ 被災状況は 北海道新聞社写真集「東日本大震災一か月の記録」を参照しています。
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by paradiso-norina
| 2015-03-09 09:12
| 東北の旅’15
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